映画 地獄の黙示録 違い

そしてそれを阻害する悪役等の立ち位置は向かって左側となります。, ちなみに、主人公がその基本の立ち位置を放棄した場合、どうなるか?と申しますと、物語の流れが主人公にとって逆流しています。これは主人公にとって困難な状況であり、ただ逆流に耐えている状態、目的の追求を放棄した場合を表現することになります。, 世の中には、『地獄の黙示録』以外にも分かりにくい映画があります。『ブレードランナー』は今になってみるとそんなに難しい映画でもないような気がしますが、それでも分かりにくさゆえ公開時には、ラストを差し替えられることになりました。『甘い生活』フェリーニの作品ですが、散漫にエピソードが続いていくだけの退屈な作品という意見が今でもかなりの割合の人に支持されています。 上下2巻の構成で、合計202分。画面の上下に黒帯が入らずに4:3の従来テレビ画面にピッタリ入っているようになっていて、日本語字幕が入ったものです。 遅くなりまして申し訳ありません。 最新兵器を使っているアメリカ軍がなぜ勝利できないのか。, ベトナム兵は武器ではなく、その心だけで戦うのだと。 チャンスはあるのに、カーツ大佐を殺せないのです。, それでも決意して自分の任務を行ったウィーラード大尉。 そのような古典的な陣地戦の描写とは異なる表現が使われえいる。, ひとつには、機動力の高いヘリコプターの投入された戦場であり、ヘリが戦う姿を描こうとするなら、画面の方向は頻繁に切り替わることになる。, また、物量的に遥かに劣る解放軍は、互角の戦闘を行えていないので、−> <−の戦闘が成り立っていないとの解釈も可能であろう。, つまり解放軍は敵ではないということなのだろうが、それなら、ウィラード達の敵は何だったのだろうか?, キルゴアのようなガイキチ紙一重の軍人が敵なのだろうか?というと、日常世界の常識を持ち出して、そのような解釈を無理強いしようとする人がいるわけです。そういう解釈を成り立たせるためには、このシーンが映画のクライマックスであるべきだ、と言うような主張を往々にすることになるわけでして、 これは、ウィラードには、カーツに会いに行くという目的はありますけれども、なぜ会いに行かないといけないのか会ってどうするのかという目的は、実のところよく分からないのですね。 販売元の名前はバーコードに隠れて、よく見えませんが、目玉のマークが見えるので、フジサンケイグループのどこかのようです。 一言で言うと、主体的に目的を持たず、流れに流されるままにカーツに会いに行く訳でして、自分で何をやっているのかよくわかっていない主人公に共感するというのは観客にとっては、割とつらいことです。観客と言うものは上から目線で映画をみているものですから、主人公の苦悩を本気で共有したいとは思っていないもんです。目的の分からない主人公とともに、物語の目的の不明なままに時間も三時間も耐えることが無理なのが普通の人間と言うものです。, 任務を申し渡されても、まだベットで寝ようとするウィラード。物語の目的を無視して惰眠むさぼるにふさわしく<−向きですが、, 単に眠気覚ましに無理やりシャワーを浴びさせられるシーンですが、 自分の日常生活になじんだ「常識」から考えて、『地獄の黙示録』の脚本構成が狂っているとかたわけた事抜かす前に、『ゴッドファーザー』でもみてから、コッポラは常人ではかなわない相手とまず理解したまえよ、と私は思うわけです。, あまりのキルゴアの飛ばしっぷりに、ウィラードは目が点になってたりしますけれども、 たとえば「病める王」はアメリカ大統領の事で、あの映画のボートの乗組員の一人ランスが大統領を意味しています。その暗示の仕方はランスの姓がジョンソンで、受け取る郵便物で分かるのですが、ミドルネームのイニシャルがBで「L・B・ジョンソン」であり、L・B・ジョンソンといえば当時の米大統領のジョンソン大統領の名前なんだそうです。ランスはあのキルゴアに気に入られるサーファーですが、要はベトナムを何も知らないカリフォルニアのサーファー青年(=ジョンソン大統領)がベトナムに入ってゆき狂気に陥り、ベトナム戦争の決着を見、ウィラードという勇者に手をひかれて救済されるという図式です。ラストの雨は「救いの雨」であります。 | かなり、後日になってしまうかもしれませんが、それを確認してからあらためてご挨拶申し上げる所存です。, ありがとうございます。 エレノア・コッポラ著、原田眞人・福田みずほ訳「ノーツ──コッポラの黙示録」マガジンハウス刊 実を言いますと、私のまぶたにある生首シーンの記憶が、コナンザグレートと混同しているものでないか気になっていまして、それを確認するため、近辺のレンタルビデオショップで、コナンザグレートを探しているんですが、なかなか見つかりません。 だからこそアメリカがこの戦争に勝てないのだとカーツ大佐は言っていたのです。, 『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』映画前売券(一般券)(ムビチケEメール送付タイプ), ドキュメンタリー『グレート・ハック SNS史上最悪のスキャンダル』SNSで世界を操る企業. では、画面はウィラードとキルゴアが戦争でもしているかのようにー> <−の構図を作り出しているのかと言うと、そういうことも無いわけですわね。, キルゴアは、右を向いたり左に進んだり、かなり縦横無尽に画面を歩き回ります。映画の台詞で「キルゴアは部下思いのいい軍人のように思える」とウィラードの語りが入りますが、 『西部戦線異状なし』にしろ『突撃』にしろ敵は敵軍ではなく、 「(立花隆の)知人もカーツの遺言に従ってウィラードが宮殿を爆破させたと考えたのだが、これもとんでもない勘違いだ」 そして、物語の目的を見据える−>側の立ち位置を最初に否定してしまっているのですから、物語の中には、目的が何なのかがほぼ見えなくなってしまっています。, それまでの価値観、安住できるモラル、祖国アメリカへの信頼、そういう既成の価値観を否定することが河をさかのぼる過程で描かれ、否定した後に何が訪れるかをカーツの王国で描いている、私には、そう見えるのですね。, この自己否定というのは、ウィラードの主役個人のものではなく、おそらく監督コッポラのものでもあり、更には、観客も共有すべきものなのでしょう、, この、カメラ目線のこぶしを固めるシーン。結局、彼が一番の敵だと認識して殴り壊すのは自分の虚像ですが、もし可能であるとしたら、みている観客を殴りつけたかったのではないでしょうか?, 冒頭の鏡を割るシーンではドアーズのジエンドがBGMに流れていますが、これがラストのカーツの暗殺のシーンへと繋がっています。, ウィラードは、もともとマックウィーンに振った役で、ブランドと派手に戦うシーンが初期段階では想定されていたそうですが、 もしかすると、これは、古きよき時代の分かりやすい正義の形は、ベトナムの戦場では見出せない、と言う意味の映像表現なのだろうかと勘ぐってみる。, ヘリの飛んでいく方向が<−主体なのだから、それを迎え撃つ解放軍はー>であるべきなのだろうが、 よくよく思い返してみますと、ベトナム戦争に於いてアメリカ軍が戦っていたベトナム解放軍の姿が、この映画にはあまり出てこないのですね。出てくるとすればロバートデュバルのヘリコプター部隊の強襲シーンくらいでしょうか。 今日は、とりあえずフランシス・フォード・コッポラ監督(ゴッドファーザーなど)の手がけた戦争映画「地獄の黙示録」を観ました。それを紹介というか、ネタバレというか… そう捉えた。, 最初の公開版を観た多くの人はそう捉えたと想像する。しかし映画が公開されてから「そういう捉えかたは自分の意向とは異なるものだ」とコッポラは公言することとなる。, ●最初に公開されたフィルムにはラストの大爆破シーンがあったのだが、コッポラは後に誤解を招いたとしてこのシーンを削除。エンディングはブラックアウトさせた。DVD化されたときに、特典映像としてこの爆破シーンは収録されていたが、特別完全版では完全に取り除かれている。, ●この映画の評論では立花隆が最も有名であるが、立花隆は この映画に於いて主人公は何と戦っていたのかの問いには、冒頭のシーンで答えを出していたわけです。 映画『地獄の黙示録 ファイナル・カット』が2月28日に公開される。巨匠フランシス・フォード・コッポラ監督による映画史に名を刻む戦争映画の金字塔が、再編集とデジタル修復を施されて新たな姿で蘇った。さまざまな伝説を持つ『地獄の黙示録』の魅力に改めて迫る。(編集部・大内啓輔), 1979年に公開された『地獄の黙示録』(日本では1980年に公開)は、コッポラが『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザーPART II』の成功で手にした私財を投じるなど、映画作家としての人生をかけた渾身の一作として知られる。カンヌ国際映画祭で最高賞にあたるパルムドールに輝き、アカデミー賞では撮影賞と音響賞を受賞。今なお戦争映画の傑作として威光を放っている。, 新たに公開されるファイナル・カット版は、コッポラが過去バージョンの問題点を分析した新たなバージョンとなる。これはオリジナル劇場公開版より30分ほど長く、未公開シーンも加えた『地獄の黙示録・特別完全版』よりも20分短い182分に再編集されたもの。映像には撮影時のオリジナル・ネガフィルムが初めて使用され、音声に劇場公開版のプリントマスターが用いられている。IMAX仕様でデジタル修復され、コッポラ自身も最も満足できるバージョンと語っている。, 『地獄の黙示録』の舞台は1960年代末、ベトナム戦争後期。戦場に戻ってきたアメリカ陸軍のウィラード大尉は、軍上層部から特殊任務──カンボジア奥地のジャングルで、軍規を無視して自らの王国を築いているという元エリート軍人のカーツ大佐を暗殺せよ──を命じられる。ウィラードは4人の部下と哨戒艇でヌン川を上り、狂気に満ちたベトナム戦争の渦中を目の当たりにする。, カーツの王国に近づくにつれて、自らも精神のバランスに変調をきたしていくウィラード。部下を次々と失いながらもカーツの王国に辿り着いた彼は、アメリカ人の報道カメラマンと出会い、カーツの真の姿を聞かされる。戸惑いを隠せないなか、ついに王国の神と対面を果たす……。, 全編にわたってベトナム戦争における暴力や狂気が皮肉をこめて描かれ、戦争に加担したアメリカ合衆国が批判されている。サーフィンをするために敵部隊を村ごと焼き払うサーフィン狂の中佐をはじめ、兵士たちの慰問のために用意された、ジャングルに突如出現するプレイメイトのけばけばしいステージ、ドラッグに溺れて正気を失いつつある河川哨戒艇の乗組員、そして指揮官不在で戦い続ける最前線の兵士など、もはや喜劇ともいえるような狂気の光景が眼前で繰り広げられる。, 当時から泥沼化していたことが明らかだったベトナム戦争だが、映画としては、朝鮮戦争における移動野戦病院の医師たちを主人公としたロバート・アルトマン監督による『M★A★S★H マッシュ』や、第2次世界大戦を舞台に戦争の狂気を描くマイク・ニコルズ監督の『キャッチ22』のように、別の戦争に仮託したかたちで描かれるしかなかった。, その意味で『地獄の黙示録』は『帰郷』『ディア・ハンター』と並んで、80年代に入って続々と作られることになる、ベトナム戦争映画の先駆的な作品となった。まさにコッポラ自身が語るように「観客にベトナム戦争の恐怖、狂気、感覚、道徳的ディレンマなどの認識を与え得るような映画体験を創造すること」(劇場公開版のパンフレットより)に成功したのだといえる。, そして、キャストにも豪華な面々が揃っている。ウォルター・E・カーツ大佐をマーロン・ブランド、ビル・キルゴア中佐をロバート・デュヴァル、ベンジャミン・L・ウィラード大尉をマーティン・シーン、タイロン・“クリーン”・ミラーをローレンス・フィッシュバーン、ルーカス大佐をハリソン・フォード、そして報道カメラマンをデニス・ホッパーが演じている。, 撮影は1976年3月20日に始まり、120日間で1,200万ドル(現在で約13.2億円、1ドル110円計算)の予算で終わる予定だった。しかし、結果として540日の撮影日数を要し、最終的な費用は3,100万ドル(約34.1億円、1ドル110円計算)にもふくらんだ。撮影後もコッポラたちは150万メートルのフィルム素材と格闘し、編集には2年半もの月日を必要とした。, そんな『地獄の黙示録』は、作品そのものと同じくらい、あるいはそれ以上に撮影をめぐる逸話が伝説となっていることで有名だ。当時、コッポラの妻であるエレノア・コッポラが撮影に同行(幼かったソフィア・コッポラたちも)。その混迷をきわめた撮影の記録は手記としてまとめられて出版された。さらに、エレノアが撮った映像や音源に関係者たちのインタビューを盛り込んだドキュメンタリー映画『ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録』ものちに公開されている。, 撮影はフィリピンで行われ、ベトナムの難民を含む数千万人にものぼるエキストラや国際色に富んだキャストたちが集められた。1969年のベトナムの状況を忠実に再現すべく、ベトナムの村落やアメリカ軍の駐屯所、アンコールワットのような寺院などのセットが続々と作られることに。そんななか撮影開始から2か月が経過した1976年5月、6日間にわたって猛威をふるった大型台風に襲われてセットの数々が破壊されてしまう。川が氾濫し、結果、撮影は2か月も中断することになった。, コッポラを悩ませたのは、自然災害だけではない。マーロン・ブランドが撮影時にキャラクターのイメージとは大きく異なる100キロオーバーの体重になっており、セリフも覚えようとしない。あげくは撮影前から手付けに大金を受け取っておきながら撮影をキャンセルしようとするなど、コッポラの精神を疲弊させる。また、デニス・ホッパーも薬物依存症がひどく、原作を読んでおらず、コッポラと口論することも。問題児ばかりの撮影に、コッポラは心労で倒れてしまった。, また、アメリカ国務省の協力を得られなかった一方で、フェルディナンド・マルコス大統領は撮影隊を援助し、火器銃砲などを提供した。が、当時フィリピン国内はゲリラとの戦闘で混乱しており、撮影に必要なヘリコプターが南ミンダナオでの戦闘のために動員されてしまうという事態も。撮影では、朝にアメリカのマークを塗り、夜にはフィリピン空軍のしるしに塗り直すなどの苦労もあったという。, ほかにもウィラード大尉役に決まっていたハーヴェイ・カルテルが早々に降りてしまうなど、滑り出しからトラブル続きだった。ちなみにコッポラ自身もカメオ出演しており、その姿を劇中で見せている。ベトナム戦争を報道するテレビ局のディレクターとして「カメラを見るな!」と兵士に声を荒げているのが彼である。ベトナム戦争ではテレビ中継が大きな役割を果たしたことが、この演出からもうかがい知れる。, 映画のタイトルにもある「黙示録」Apocalypseとは、黙示文学とも呼ばれるが、紀元前2世紀ごろから紀元350年にかけてユダヤ教徒やキリスト教徒の間で書かれた宗教文書のうち、神の秘められた意志が啓示されたと称する書物のこと。一般的には「ヨハネの黙示録」のことを指すが、その意味でも『地獄の黙示録』はタイトルから暗示的であり、「現代の黙示録」として神話的な物語ともなっている。多様な解釈を可能にするのは、当然のことといえる。, 原案はジョゼフ・コンラッドの小説「闇の奥」であり、コッポラは小説の素材やキャラクターを自由なかたちで利用している。映画のカーツ大佐にあたる主人公はアフリカ奥地で象牙採集に従事する商社マンで、未開の地で原始的なエネルギーに圧倒されて、ゆくゆくは人間性を失いかける。帰国する途中で、映画にも登場する有名なセリフを口にする。ちなみに、この小説を映画化しようとした人物に『市民ケーン』を撮ったオーソン・ウェルズがいるほか、ブラッド・ピットが出演した『アド・アストラ』のベースにもなっている。, ほかにも『地獄の黙示録』には、T・S・エリオット「うつろな人間たち」「荒地」、J・L・ウェストン「祭祀からロマンスへ」、J・G・フレイザー「金枝篇」などの文学作品が重要なソースとして用いられており、劇中にもさまざまなかたちで登場している。こうした物語と絡めて解釈に挑むのも一興かもしれない。, さらにはドアーズの楽曲や「朝のナパーム弾の臭いは格別だ」というキルゴア中佐による名セリフ、キルゴア中佐率いる空挺ヘリ部隊がリヒャルト・ワーグナーの「ワルキューレの騎行」をかけながらベトナムの村落を攻撃していく描写など、脳裏に焼き付いて離れない数々のシーンがある『地獄の黙示録』。その魅力を今回の貴重な機会に、大きなスクリーンで存分に味わってみたいものだ。, 参考文献 exterminate Them ALL」というカーツの走り書きが何を意味するか全く中に浮いてしまう。, ●当時のアメリカ軍やアメリカ国内のこの映画に対する反応は非常に手厳しかったと言われている。批判的な意見が溢れ、スタジオまでもが及び腰になり、米国内での公開すらどうなってしまうか分からないと危惧されていたという。コッポラはこのままでは自分に対しての批判、映画に対しての批判が大きくなる。スタジオとの関係も考え「あれは違う、多くの人が勘違いをしている。私はそういう意図であの爆破シーンを最後いれたのではない」と状況に歩み寄り、摺り合わせた”嘘”をついたのだ。”詭弁”を弄したのだ。自分の編集したラストを変更し、自分の作った作品を世の中の批判、非難から遠ざけ、安全なものにすり替えたようとしたのだ。, コッポラは世の中の、当時のアメリカ社会の目とそこから生じた圧力に合わせて自分の映画を改変し、捩じ曲げたのだ。, ●それが自分のこの映画に対する、コッポラに対する結論である。立花隆の主張するラストの意味付こそが物語の流れを考えず勘違いした、自分の都合よく解釈しようとした深読みなのだ。, ●出来上がってしまったものでも、後付けで監督が何とでもいいように言える。観客の解釈と監督が意図したものが違うことも多々ある。ただし、繋がった映像、台詞、演技による整合性があるものが最も解釈として正しいとすべきだ。, ●息子の話、父親の話をしていたカーツ、自分が作り上げたジャングルの中の王国、その王として君臨する自分自信の苦悩。戦争という狂気の中で自分が辿り着いてしまった狂気の場所。それをカーツは末梢したかった。それこそが人間を狂わせた戦争に対する反意志なのだ。だからカーツは「Drop the Bomb. exterminate Them ALL」が叶えられずカーツが作った狂気はこの世に残ったままになってしまうのだ。 本能で獣のように戦う彼らこそが、本物だと気がついたのです。, そのカーツ大佐の話を聞いて、ウィーラード大尉も流され始めていました。 そして、主人公を取り巻く環境が以上であればあるほど、観客が映画に求める目的は、完全にかすんでしまい、 | 映画『地獄の黙示録 ファイナルカット』imax版は2020年2月28日から全国ロードショー フランシス・フォード・コッポラの名作映画『地獄の黙示録』。 そのストーリーの難解さとリアリズム溢れる映像美によって、多くの方々を魅了し考察を生んでいる作品である本作。 その途中で数々のベトナム戦争の現状を見ていくのです。, そして次第に部下達がおかしくなっていく様子も見ます。 「よくわからなくなってきた」、おそらくそう感じることが主人公ウィラードに共感する一番の近道なのでしょう。, では、この映画には、明確な敵が画面上のベクトルとして示されることは無いのか?よくわからない、結局何がいたいのか分からなかった、で済ませるべき映画なのか、と言うと、決してそうではないのですね。, 主人公は、本来目的の存在する−>の方向を向くべきであり、その為に画面の向かって左側に立つべきなのですが、, このシーンを単なる気まぐれで差し込まれたものであると解釈しないのでしたら、 そりゃ、こういう狂った軍人、狂った軍隊がラスボスであると認識するなら、当然そういう脚本にすべきなんでしょうが、『地獄の黙示録』ってそういう映画じゃないでしょ? 「地獄の黙示録 特別完全版」(HERALD)のビデオをレンタルしてきました。 結局この爆破映像は使用した。この作品をオリジナルの70mmフィルムで最初に公開したときは、メインタイトルもエンドタイトルも付けていなかった。だから観客はフィルムの終わりが物語の終わりなのだと受け取った。(爆破映像は付いていない)だが35mmフィルムでの公開時にはタイトルを入れなくてはならない。そこで爆破の映像をタイトルバックに使った。たぶん、それが結果的に誤解を招いた。一般公開でこの爆破映像を使用したことが、2つの結末説を想起される証拠になってしまった。 ・そもそも上記の私の記憶は正しいか? ただし、何が分からなかったのか?位は各自自覚的であるべきだろうと私は思います。, baphooさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog コナン・ザ・グレートは2回ぐらい、テレビで見たことがありますが、これもかなり前のことで、情けないことに、今思い出せるのは、粉引きの大きな機械みたいなのをぐるぐる回しながら力強い大人に成長するシーンぐらいです。これも記憶違いだったりして。(笑) アメリカ軍から危険人物とになされていたカーツ大佐。, これはカーツ大佐自身がベトナム戦争を通して感じた結果だったのです。 やりたくて始まった任務ではないですから、このようなカットのつなぎがふさわしいのでしょう。, このようなことを考えていくと、果たしてこれは戦争映画なのだろうか?と言うことに思い至ります。元ネタの『闇の奥』からして戦争映画ではないのですから、どうやらこれは戦争映画ではないのではなかろうか、分けのわからない状況に突っ込まれて何かを見失うだけの話なのではないか?と考え込んでしまうのですが、 Copyright © 2000-2020 CINEMATODAY, Inc. All rights reserved. 暗殺に向かうウィラードの視線は基本的に<−とネガティブ方向。, それに対し、カーツは−> <−の構図で向き合っているかというと、実は同じく<−であり、単に背中から不意打ちしたと解釈することも出来るだろうが、実は二人は対立関係にあるのではないと解釈も成り立つはずである。, 冒頭の鏡を割るシーンで、物語の目的を失った主人公が、ここでやっと本来の目的を見据えることの出来るポジションに返り咲いたとでもいわんばかりのカット繋ぎ。, つまり、自己否定の過程を終えて、自己再発見に至ったと解釈できるシーンですが、 平和時の常識VS戦場の現実 だったり、  軍隊機構の非人間性VS生身の人間だったりします。, 敵のほとんど見えない『地獄の黙示録』では、ウィラードたちは何かと戦っていたのかと画面の方向をチェックしつつ考えるのですが、, 解放戦線の拠点の村を強襲するために出撃するヘリ部隊。 ブログを報告する, あの状態で武器を地面に置くことが平和のメタファーだというのは飛躍し過ぎた、余計な深読みであり邪推だ。, それが自然な物語りの流れであり、登場人物と台詞から繋がる意志の表れだ。そう解釈するのが極めて自然だ。, http://www002.upp.so-net.ne.jp/harapeko/apocalypsenow/index.html, 『JOKER ジョーカー』スタイリッシュに描かれる狂気。しかしジョーカーは極悪ではない。描いた狂気は…, 『スターウォーズ9 / スカイウォーカーの夜明け』環は完結した。Circle is completed 収まるべき鞘に間違いなく正しく収まってくれた。, 『JOKER ジョーカー』スタイリッシュに描かれる狂気。しかしジョーカーは極悪ではない。描いた狂気はジョーカーではなかった。. 一体どんな人なのかと思い描きながら、観客もカーツ大佐の登場を待っていました。, そして現れたカーツ大佐はアメリカ軍の兵士ではなくなっていました。 そして、いつ、主人公が向きを変えたかとか、主人公と同じ方向を向いているのは誰と何なのかとか、主人公と逆を向いているのは誰と何なのかに着目していけば、その映画を理解できる、というのがこの電波ブログの趣旨であります。, あまりにも単純な法則で成り立っているのがこのブログの規則なのですが、その規則を元に私がかたっている内容は、少なくとも私から見た場合極めて妥当なものに思えるのですね。, 画面にはあらかじめ進行方向があり、その向こうに物語の目的があると設定されている。映画とはそういうもんですし、これはアメリカ流の脚本作法の「まず物語の目的を設定する」というものに対応しております。 土着の人たちのようになっていったのが、カーツ大佐だったのです。, 文明とかけ離れることで、人間の心の奥にある本能に支配され始めたのがカーツ大佐だったのです。, 映画の画面では前半の方が激しく感じますが、人間としては後半の方が獣で本能で戦っているのです。 ・カットされていないビデオはないのか? しかしそこから前半の勢いとは変わり、物語が心理的に描かれ激しさはなくなっていきます。, 前半全く登場しなかったカーツ大佐。 としているが、このシーンで原住民が武器を捨てるシーンは実に見難い、分かりにくい。私には武器を捨てることが平和を意味するなどとはとても思えず、新たな支配者となったウィラードへの服従を示したのだと受け取った。あの状態で武器を地面に置くことが平和のメタファーだというのは飛躍し過ぎた、余計な深読みであり邪推だ。, ●ドアーズの歌の歌詞、カーツの走り書き、自分の息子たちに伝えてほしかったこと、そこから筋をつなげていけば、ラストの宮殿爆破はカーツが作った狂気の王国をすべて消滅させてくれというカーツの願いを叶えたものだという結論にたどり着く。ドアーズの歌もそこにつながる内容だ。それが自然な物語りの流れであり、登場人物と台詞から繋がる意志の表れだ。そう解釈するのが極めて自然だ。 カール・フレンチ著、新藤純子訳「『地獄の黙示録』完全ガイド」扶桑社. 主人公が目的を追求しないのだから、アメリカ式の脚本作法では、これらの作品は物語として成立していないと言う烙印を押されかねない危ういものであるのです。 『地獄の黙示録』劇場用パンフレット 「編集が最終段階を迎え公開準備に入った頃、この作品は様々な物議を醸し出した。長期にわたる制作、マスコミへの発表完全に伏せられとてもミステリアスな映画として話題にされていた。そしてなにより議論の的となったのは事実とは裏腹に二つのエンディングがあるという説だ。そのような印象を与えた理由を説明しよう。映画の編集過程では様々な映像を用意して試行錯誤する。その一つとしてカーツ王国の爆破があった。フィリピンに建設した王国の建物は撮影終了後、撤去することが法律で決められていた。そこで爆破することに決め、多数のカメラと赤外線フィルムを使って幻想的な映像を撮ろうと考えた。この映像を本編で使うことも出来るだろうと考えてもいた。ウィラードがカーツの権威を継承するエンディングでは私自身の未来への展望が込められている。現代における戦争という究極の戦いを踏まえた戦争のない未来への願い。武器を捨てるウィラードとそれに従う原住民たち。ランスの手を取って歩く姿は新時代の到来を象徴する。そのため、空爆によって原住民を殺害するのは私の求めるテーマに反する。 もしも教えていただけると幸いです。, ありがとうございます。 たしかに、頼りがいのある上司であることは否定できない事実でしょう。 アメリカ映画が、映画であったのは、この映画までだったのではないか?そんな風に思う。 正真正銘の映画、これぞ映画、映画足りえる映画・・・・・そういう映画である。 心してみなければならない、背筋を伸ばし、真剣に対峙して見なければいけない、そういう映画でもある。 映画の感想ブログです。基本的にその映画が観たくなるように、ということを意識して記事を書きたいと思っています。, 出演:マーロン・ブランド、ロバート・デュヴァル、マーティン・シーン、デニス・ホッパー、フレデリック・フォレスト、アルバート・ホール、サム・ボトムズ、ローレンス・フィッシュバーン、ハリソン・フォード, 実は今回の「ファイナル・カット」IMAX上映は観れていないんですが、何かとお出かけしにくい昨今、おうちでの鑑賞の参考にでもなればと思っております。, 「地獄の黙示録」は大好きな映画で、何回も観てるんだけど、観るたびに、後半退屈で退屈で、早く終わらないかなあ…とか思っちゃうんですよね(失礼!)。, それなのに、終わってみると、すごい満足感がある。面白い映画を観た!という感動があって、しばらくするとまた観たくなる。, 逆に後半を評価する場合は、一気に難しい話になりがちなんですよね。「闇の奥」とか「荒地」とかの文学的な話になるか、あるいは政治的・歴史的な話になるか。どっちにしても眠気を誘いがち。, でも、そういうのではない、もっと感覚的な部分での面白さが本作にはあると思うし、後半にもやっぱり映画的な快感はあると思うんですよ。, 少なくとも僕にとって…ですが、それはやはりこの映画全体が、一つの巨大なカオスであること。, 「地獄の黙示録」は、もうその制作過程から混乱しています。それは有名なドキュメンタリー「ハート・オブ・ダークネス」を観ても歴然ですが。, 莫大な予算、遅れる日程、ジャングル、台風、セットの崩壊、デブで言うことを聞かないマーロン・ブランド、そういうただでさえ混乱状態の撮影プランの中で、日々撮影が進んでいくのにラストが決まらない。収拾の付け方が分からない。, そんな制作状況で、アドリブに近いような撮影をして、どうにかこうにかまとめ上げた映画ですからね。「精巧な構築美」などというものとは程遠い。, だからまあ、プロの仕事という面では褒められたものじゃない。コッポラの力技で何とか形にした映画だとは思うのです。, それは、本作の題材であるベトナム戦争が、まさに巨大なカオスそのものであるということ。, 映画の制作過程に起因するカオスが、そのままベトナム戦争という巨大な泥沼プロジェクトのカオスを体現していて、結果超絶的なリアリティに繋がってるということだと思うのです。, 普段は生命尊重を謳ってるはずの人間が、いきなり殺すことを是として行動し、相手勢力の殲滅を目指して大規模な行動を起こすのだから、理性的であるはずがないのです。, この間の「1917」にしろ、ノーランの「ダンケルク」にしろ、スピルバーグの「プライベート・ライアン」にしろ、それぞれのやり方で戦場の臨場感を追求しています。, 殺し殺されることが日常になってしまう、異常な空間における恐怖や緊張、ストレス、絶望、そして混乱と狂気。, どの映画もそれを再現しているんだけど、でもやっぱりそれはあくまでも「再現」であって、「映画」なんですよね。シナリオがあって、構成があって、しっかりと観客にとっての見やすさ、わかりやすさを担保した上で、その枠の中で混乱を再現してる。, 「地獄の黙示録」にはそれがない。観客にとって親切な「枠組み」というものがないんです。, 主人公たちの行動は、上流へ行ってカーツを殺すという目的ははっきりしてるけど、それ以外は基本的に行き当たりばったり。, 狂った上官の戦闘に参加し、サーフボード盗んで逃げ出し、トラに出会って逃げ出し、怪しいボートの一般人は皆殺し、プレイメイトがいれば興奮して、矢を撃ってくる現地人にはマシンガンで応戦する。, 何の理屈も筋書きもない。ただ、その都度目の前に現れる出来事に反応して行動することの連続。, ただ反応しているだけだから、そこには何の意味も立ち現れてこない。ただ、意味のない場当たり的な行動が連続するだけ。, ワルキューレには高揚し、死の恐怖には神経をすり減らす。興奮と恐怖が脈絡なく交互にやってくる。, そんな場所では、一貫した感情も、それに基づいた行動もあり得ないんですよね。ただ、状況に反応することだけが感情となっていくのです。, そして、まさにこの脈絡のなさ、ただ起こることに反応するだけで、一貫した意味や感情が失われていく感覚。, でも、殺し合いが日常である環境というのは、きっとそうならざるを得ないんじゃないかと思うんですね。, この映画から、観客に親切な枠組み、映画らしい起承転結といったものが抜け落ちているのは、初めから明確に意図されたものではないと思うんですよ。, やはり、ジョン・ミリアスの脚本の気に入らないコッポラがその場で脚本を書き換えて、即興的に撮影を行なっていったことの副産物。現場の混乱状態の反映でしかないと思うんですが。, 作為のない、本物の混乱状態を描き出しちゃってるという、これは奇跡のような怪我の功名ですね。, 映画は後半になるにつれ、どんどん疲れ、消耗し、陰鬱になっていきます。状況はどんどんカオスの度合いを増していき、主人公たちはどうしていいか分からなくなっていく。, それはまさに、この撮影をどうしていいか分からなくなっていくコッポラの心理そのままのように。, 映画の結末をどうつけていいかわからないコッポラの悩みが、そのまま映画に現れちゃう。ここまで作り手と映画の中身が一致するというのも、前代未聞だと思うんですが。, で、時間稼ぎのように、コッポラはカーツにいろいろ「なんか哲学っぽいこと」を語らせたり、詩集を読ませたりします。, この辺り、マーロン・ブランドの即興が多かったみたいですね。結末の脚本がまだ出来てないので、冗談抜きで本当に時間稼ぎだったりします。, 上記したように、ここまではただひたすら、目の前に降ってくる状況に反射的に反応する様子ばかりが、描かれてきました。, それに対して、カーツは「思考と意味」を体現している。反射も行動も何もなく、ただ暗がりにじっと座って、難しげな古典文学を読んで、何か意味ありげなことを考えている。, でも、それは実際のところ、マーロン・ブランドが期待に反して太りすぎでやってきたことをごまかすために他ならなかったんですが。, 異常な状況、あまりにも意味のないように思える状況に置かれると、人間というものはどうなるか。, 人は、意味のない状況には耐えられないものです。しかも、そこに自分の生き死にが左右されるのであればなおのこと。誰だって意味もなく死にたくなんかないですからね。, 戦争という状況で、意味もなく殺したり、自分が死んだりすることを受け入れるなんて、どうしても耐えられない。, だから、どうにかして意味を読み取ろうとする。意味のないめちゃくちゃな混乱から、何か意味のあることを見出そうとしてしまう。, コッポラも、同じで。自分が作ってきたこの映画が、ただベトナム戦争の混乱と無意味をそのまんま体現してしまっていることに気づいて、「いや、やっぱりなんかもっと深い意味がないとマズイんじゃないか…」と思ってしまって、何としかして意味を見出そうとしてしまってる。, そういう状況に陥ってる。それが、映画の終盤、カーツ王国に入ったところで起こってる、だらっとした停滞の正体なんだと思うのです。, だって、意味なんかないですからね。いつまで考えたって、何も見出せるはずなんかないのです。, だからこの後、ウィラードが「別にこれといったきっかけも、意味もなく」カーツはやっぱり殺そう!と決意して、顔にペイントして沼から現れて、牛を殺すお祭りに合わせて牛刀でカーツをぶっ殺す。ここが強烈なカタルシスを生むんですよ。, これ、「意味なんてねーよ!」っていうツッコミですからね。観ていて非常に気持ちがいい。, 映画館で観たのは2001年の特別完全版の時でした。この時に大きく増えたのが「フランス人の植民農園」のシーンで。正直、これ切って正解だったんじゃないかなあ…と思ってしまったものでした。, これによって政治的・歴史的な視点が強化されたのだ…ということが言われていますけど、僕は正直その辺まったく興味が持てなくて。, 「地獄の黙示録」の魅力は、上に書いたようなカオス・混乱・混沌だと思うんですよね。だから、説明的な解説を付け加えるようなシーンは蛇足にしか思えなかったのです。, さらに言うと、僕が最初に観たビデオソフト版では、映画を締めくくるのは空爆によってカーツ王国が炎上するシーンでした。これも非常にカタルシスがあったんだけど、「特別完全版」以降は削除されてしまって、ウィラードがボートで去っていくシーンで静かに終わるアンチクライマックスなんですよね。, コッポラの意図はそうなんだろうけど、でも映画の気持ち良さとしては爆発・炎上はあってほしいなあ…。, ウィラードが武器を捨て、原住民たちも武器を捨てる。そこがコッポラの意図だから、空爆はそれと正反対…ということなんだけど、でもその前にウィラードはカーツを武器で殺してるわけで。, 映画の流れに自然に則しているのは、むしろ王国を原住民もろとも焼き尽くすこと…なんじゃないの?と思っちゃいます。, このシーンが出たり消えたり、ストーリーの解釈が公開後もころころ変わっちゃうのも、コッポラが最後の最後まで悩んでいたことの表れなんですよね。, 作り手の真剣な迷い・悩みが映画そのものに影響していて、その結果としてちょっと他にない、一種独特な映画になっているのがこの「地獄の黙示録」という作品だと思います。, 「地獄の黙示録」はいったい何が面白いのか…についての考察 ネタバレあり | MOJIの映画レビュー, 映画の制作過程に起因するカオスが、そのままベトナム戦争という巨大な泥沼プロジェクトのカオスを体現.

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